【神経症コラム⑦】確からしさを感じることの大切さ。
しばらくぶりの更新。
忙しくてなかなか更新できず申し訳ない。
CBTやらなんやら忙しく漸くほっと一息とれて更新出来るといった感じである。ホリエモンだのなんだのが大学はいらないだの大学生は勉強しないだのなんだの言ってるが医学生とは例外で本当に忙しいとつくづく思う(笑)
さて久しぶりの神経症ネタである。
今回は、いや今回も死ぬほど大事な事を書くので耳の穴をかっぽじって聞くように(笑)
さて神経症者は日々の生活を苦痛と闘いながら過ごしている訳であるが
強迫観念を無視してもあまりにしつこいので本当にこれでいいのか?と悩む事が何回も何回もあるとおもう。強迫性障害の人は強迫行為に走りたくなると思うしそうじゃない人はあまりの辛さにその場しのぎの精神論に頼りたくなるのだ。
それくらい強迫観念はしつこいのだ。
むしろ悪くなっている気さえするのだ。
だがここが落とし穴である。ここでまた結局治りっ子ないと諦めて強迫観念やらその場しのぎの精神論やらに頼るとさらに悪化してしまうのだ。
ここはグッとこらえて欲しい。
まずはむしろ悪くなっている気がするというのは正常な感覚でありそれこそが真の薬であると心得よう!
これを心得るだけでだいぶ違ってくるはずである。
そしてもう一つ大事な考えを伝授しよう。
それは確からしさを感じるという事である。
確からしさとはこれでいいのだとかこれこそが真理であるとかきっとこういうあり方に正しさがあるといったいわば自身の直観のような感覚である。
これは言葉で説明するのは難しいが言葉にできないからこそ身を以て感じてほしいのである。
例えばあなたが車を運転していて誰かをひいてしまったのではないかという嫌なイメージが頭を占拠してしまい確認してしまいたくなったとしよう。そのときにこのときはどこに確からしさがあるのかというのを肌で感じて欲しいのだ。
間違いなく車を止めて確認することに確からしさは無い筈である。
車を止めないで嫌なイメージが浮かんだまま車を運転するという目的を遂行する事に確からしさを感じるべきなのだ。
ここで大事なのは言葉を使わない事である。
あるがままとか今が大切だとか自分に言い聞かせてその場をなんとかやりくりしたり身体をつねったりしてごまかしたりするのはやめて欲しいのである。
ただ「ああこれでいいんだな」と感じて欲しいのである。
こんな事言ってもなかなか伝わりづらいかもしれないがある日その感覚というものがふとした瞬間にくるのである。もう既にその感覚がわかっている人はその調子である。
抽象的なアドバイスになってしまったが参考になれば幸いである。他の記事と合わせて参考にしてみてほしい。